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34 Tchaikovsky : Piano Concerto No.1 Op.23 北 川 曉 子 ♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・♪・ 私の子供の頃は CD なぞという便利なものはな く、音楽を再生するためには、取り扱いに慎重 を要する LP しかありませんでした。家には更に 古い戦前の SP 等もありました。コハンスキー先 生にお習いするようになった小学校 5 年以前のこ とはあまり憶 おぼ えておりませんが、以後はレッス ンで勉強する曲のレコードをよく買って貰 もら って いたようです。モーツァルトならギーゼキング、 ベートーヴェンならバックハウス、ショパンは リパッティなどに感激しておりました。それ以 外にも、ホロヴィッツとトスカニーニのチャイ コフスキーのコンツェルトは大好きで、針が飛 んでしまうほど何十回何百回と聴き惚 れており ました。これはライヴ録音でしたので、演奏会 の緊張感がぞくぞくするように伝わってきます。 さすがのホロヴィッツでもミスタッチはしてい ましたが、そんなことは些 ささい 細にしか感じられま せんでした。このピアニストは自分とは別世界 のひと、とただ崇 すうはい 拝するのみでした。 高校時代は NHK が招いた初めてのイタリーオ ペラにうつつを抜かし、修学旅行とモナコの「道 化師」の公演が重なってしまった時は、風邪と いうことで修学旅行を欠席してモナコの声を堪 たん のう しました。我が家のレコードはそれをきっか けにオペラ関係が増えました。大学卒業後すぐ にウィーン留学が決まった時は、これでオペラ が存分に聴ける!と嬉しかったものです。 実際、その頃は音楽アカデミー(現在はウニ ヴェルジテートと称するようになりました)にオ ペラ座から学生用立ち見席を売りに来てくれて、 一晩 10 円(公衆電話 1 回分)で買えたのです。毎 晩公演しているうちの 5 晩分まで売ってくれまし たので、ほぼ毎晩通っていたことになります。 ウィーンではあらゆるレパートリーを上演して いましたので、モーツァルトやヴェルディなど は良いとしても、ワーグナーはさすがにくたび れました。休憩になると、ロビーのソファーに 一目散でひと心地でした。質素ながらも音楽に どっぷり浸 つか かった、夢のような日々でした。街 そのものも歴史的な壮 そう れい な建物が多く、すばら しい美術品がふんだんにあり、食べ物はおいし いし、それよりまず、第一の目的のピアノのレッ スンが充実していたことが幸せでした。ハウザー 先生は厳しいことで有名でいらしたそうですが、 理に叶 かな った説明をして下さり、なるほどと納得 するばかりで恐いと思った事はありませんでした。 グループレッスンでしたので、上手な生徒の演 奏はとても勉強になりました。その際、先生が どんな方向からアプローチなさりアドヴァイス されるかも勉強になりました。優秀な生徒の多 いクラスだったので刺激に囲まれて、恵まれて いたと思います。 61

Tchaikovsky : Piano Concerto No.1 OpTchaikovsky : Piano Concerto No.1 Op.23 北 川 曉 子 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

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 Tchaikovsky : Piano Concerto No.1 Op.23北 川 曉 子

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私の子供の頃はCDなぞという便利なものはなく、音楽を再生するためには、取り扱いに慎重を要するLPしかありませんでした。家には更に古い戦前のSP等もありました。コハンスキー先生にお習いするようになった小学校5年以前のことはあまり憶

おぼ

えておりませんが、以後はレッスンで勉強する曲のレコードをよく買って貰

もら

っていたようです。モーツァルトならギーゼキング、ベートーヴェンならバックハウス、ショパンはリパッティなどに感激しておりました。それ以外にも、ホロヴィッツとトスカニーニのチャイコフスキーのコンツェルトは大好きで、針が飛んでしまうほど何十回何百回と聴き惚

れておりました。これはライヴ録音でしたので、演奏会の緊張感がぞくぞくするように伝わってきます。さすがのホロヴィッツでもミスタッチはしていましたが、そんなことは些

さ さ い

細にしか感じられませんでした。このピアニストは自分とは別世界のひと、とただ崇

すうはい

拝するのみでした。高校時代はNHKが招いた初めてのイタリーオ

ペラにうつつを抜かし、修学旅行とモナコの「道化師」の公演が重なってしまった時は、風邪ということで修学旅行を欠席してモナコの声を堪

たん

能のう

しました。我が家のレコードはそれをきっかけにオペラ関係が増えました。大学卒業後すぐにウィーン留学が決まった時は、これでオペラ

が存分に聴ける!と嬉しかったものです。実際、その頃は音楽アカデミー(現在はウニ

ヴェルジテートと称するようになりました)にオペラ座から学生用立ち見席を売りに来てくれて、一晩10円(公衆電話1回分)で買えたのです。毎晩公演しているうちの5晩分まで売ってくれましたので、ほぼ毎晩通っていたことになります。ウィーンではあらゆるレパートリーを上演していましたので、モーツァルトやヴェルディなどは良いとしても、ワーグナーはさすがにくたびれました。休憩になると、ロビーのソファーに一目散でひと心地でした。質素ながらも音楽にどっぷり浸

つか

かった、夢のような日々でした。街そのものも歴史的な壮

そう

麗れい

な建物が多く、すばらしい美術品がふんだんにあり、食べ物はおいしいし、それよりまず、第一の目的のピアノのレッスンが充実していたことが幸せでした。ハウザー先生は厳しいことで有名でいらしたそうですが、理に叶

かな

った説明をして下さり、なるほどと納得するばかりで恐いと思った事はありませんでした。グループレッスンでしたので、上手な生徒の演奏はとても勉強になりました。その際、先生がどんな方向からアプローチなさりアドヴァイスされるかも勉強になりました。優秀な生徒の多いクラスだったので刺激に囲まれて、恵まれていたと思います。

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自分が目指した勉強の方向が間違いではなかったらしい、と安心しつつこれからガンバルゾ!と張り切っていたある日(まだ1年経っていませんでした)先生からお電話があり、あさってのマチネー(午前)でチャイコフスキーのコンツェルトの第1楽章を弾け、とのことでした。この時は下宿に電話を引いたことを後悔しました。ドイツ語だって怪しいのに、電話が繋

つな

がってしまったばかりに難題が降

り懸かか

ってしまった、と思いました。同じクラスの友達は優秀な人が多かっただけに、リサイタルを控えているとかコンクールが近いとかで暇人がいなかったらしく、新

しん

参ざん

者もの

の私まで話が来てしまったようです。若い人たちに聴かせる鑑賞会らしく、誰かがキャンセルになって、先生に紹介の話が飛び込んだのです。あいにく私はそれまでにチャイコフスキーを弾いた事がありませんでしたが、先生が仰

おっしゃ

るのだからひょっとしたら出来るのかも知れない、と思う事にしました。まず楽譜を買うことからです。幸い中心地に近いところに住んでいましたので、歩いて買いに行き、夜までかかって譜読みです。この時まざまざとホロヴィッツのレコードが蘇

よみがえ

りました。僅わず

かですが、ホロヴィッ

ツのミスタッチを私が正しく弾くと、逆に間違ったかな?とびっくりしてしまう風でした。翌日の午前には先生のお宅にレッスンに伺い、夕方に学校でもう一度見て下さいました。1つの楽章とはいいながら、立派なカデンツまでありますから、全体の半分以上になるのではないでしょうか。先生も心配になられたようで、譜面を置いてもいいよ、と言って下さいましたが、現実は見て弾ける代

しろ

物もの

ではありません。結局暗譜をしました。あの憧

あこが

れのムジークフェラインザールで、高校生を前にしてですが演奏させて頂けたのです。無意識にもホロヴィッツをなぞりながら必死でした。一日半しかなかった事、1

日に2回レッスンを受けた事は忘れられません。どんなドレスを着たかは忘れました。

その後帰国してからの私のコンツェルト回数ではグリーク、ショパン等と並んでチャイコフスキーが多かったようです(但

ただ

し、これは私の好みというより世間の好みでしょう)。私にはやはりチャイコフスキーのコンツェルトとホロヴィッツはだぶって存在しています。

(きたがわ あきこ 東京芸術大学名誉教授)